今回は、『キュビスム』についておはなしします。
まずキュビスムとは、20世紀初め、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって創始され、多くの追随者を生んだ現代美術の大きな動向のことです。

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http://shiranaiart.blogspot.com/2014/03/blog-post_11.html?m=1
それまでの具象絵画では、1つの視点に基づいて描かれていたこに対して、様々な角度から見た物の形を1つの画面に収め、ルネサンス以来の一点透視図法を否定したものです。
端的に言うと、「単一焦点による遠近法」の放棄(複数の視点からなる対象の把握と画面上の再構成)と、形態上の極端な解体・抽象化・単純化 を主な特徴とします。フォーヴィスム※が色彩の革命であると言われるのに対し、キュビスムは形態の革命である、という言い方をされることもあります。
※(今後記事で取り上げます)
キュビスムの芸術の分野における影響は大きいものです。絵画だけでなく、彫刻、デザイン、建築、写真にまでその影響は及んでいます。特に、未来派、ロシア構成主義、抽象絵画への影響は絶大なものだったようです。
理論的な難解さがあるものの、視覚的には新しく、奇怪で人目をひくため、多くの画家の好みに合致し、キュビスムはかなりの追随者を生みました。
フランス語ではキュビスム (cubisme) と、「ス」の発音ですが、英語ではキュビズム (cubism) と、「ズ」と濁った発音になります。
キュビスムの歴史は、ピカソが1907年描いた『アビニヨンの娘たち』が始まりです。この絵をピカソは一部の友人にだけ見せましたが、反応がイマイチだったようです。アンリ・マティスはこの絵を見て腹を立て、
アンドレ・ドランはピカソがそのうち首を吊るのではないかと心配し、ブラックは「三度の食事が麻クズとパラフィン製になると言われたようものだ」と言い放ったようです。
しかし、ブラックはその後ピカソの仕事の重要性にすぐに気づき、ひそかに『大きな裸婦』を描いてすぐにそのあとを追いました。
そして『エスタックの家』をはじめとする7点の「セザンヌ的キュビスム」の風景画を描いて、1908年ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーの画廊で公開しました。
これを見た批評家のルイ・ヴォークセルが『ジル・ブラス』という紙上で「ブラックは一切を立方体(キューブ)に還元する」と書きました。これがキュビスムの名の起こり、始まりといわれています。
翌年の1909年からピカソとブラックは共同でキュビスムの追究を始めました。
1911年ごろの作品はどちらのものか判別できないほどよく似ているものがあります。ピカソとブラックの共同作業は、ブラックが第一次世界大戦でフランス陸軍に召集される1914年まで続きました。
キュビスムがはじめて世に知られることになったきっかけは、1911年の第27回アンデパンダン展にあります。
ピカソとブラックの仕事に影響を受けたピュトー・グループの画家たちが会場の一室を占拠して、キュビスムの一大デモンストレーションを行ったのです。オーディエンスはそれらの「醜い作品」を見て様々な衝撃を受けて、口々に非難を浴びせました。
それほど人々に影響を与えたのです。
まだまだ奥深いキュビスムですが、今回はキュビスムの概要と歴史についてのおはなしでした。