皆さんも学生の頃、『葛飾北斎』 この名を一度は耳にした事があると思います。
江戸時代に一世を風靡したとされる天才浮世絵師
『葛飾北斎』
彼の代表作とされる「富嶽三十六景」等は、海を渡り
絵画の巨匠とされるゴーギャンやゴッホに多大なる影響を与えたとされています。
しかし彼は、浮世絵作品だけでなく、様々な奇行でも有名だったのです。
江戸時代の平均寿命50歳のところ、彼は90歳まで長生きし、その90年間の人生に3万点もの作品を残しています。
そして彼には、弟子・孫弟子がなんと200人以上もいたのです。本当に全員を把握していたのかは定かではありません。
彼は、90年の人生でなんと93回も転居、つまり引っ越しを繰り返していたのです。
絵を描いてはゴミをその辺にすぐに捨ててしまうので、「臭い」と思ったらすぐに引っ越していたようです。
それだけでなく、雅号(本名以外につける風雅な名)を約30回も変えていたとされ、これらを聞く限り、極度の飽き性だったのかもしれませんね。
ここまでで十分伝わる奇人っぷりですが、この数々の奇行エピソードから見えてきた北斎は、実は多彩な顔の持ち主だったのです。
彼は、単なる浮世絵師ではありません。
天才浮世絵師、確かにそうですがそれだけではなかったのです。
画家、漫画家であり、プロデューサー。そしてプロダクトデザイナーであり薬剤師でもあったのです。
彼は少年の時から、奇人っぷりが発揮されています。
幼少期から絵が好きだった北斎は、19歳で「勝川春章」に入門します。
そして20歳で「勝川春朗」の雅号でデビューを果たします。
そして修行を続け、10年の月日が流れたとき、北斎はふとあることを思うのです。
「絵は好きだけど、勝川派の絵が好きなわけじゃない」
そうして彼は他流派を学びに出ます。
結局それが師匠にバレて、破門にされてしまうのです。
当たり前ですよね(笑)
雅号を変え続けた北斎。
その節目は、心境の変化や新しい画法を会得したタイミングだったと言われています。
常に自分を生まれ変わらせていたのかもしれませんね。
好奇心、探究心が旺盛な北斎。
北斎は、西洋の遠近法を研究したり、常に新しいものを追求していました。
自身の作品が発売される際の宣伝する能力にも長けていたようです。
90歳まで生きた北斎は、健康のため我流で薬を仕込んで、中風を治したとも言われています。
彼は描くためならなんでもしてしまいます。
こういったことから「奇人」と呼ばれるのも納得がいきますね。