武将達の散り際の美学

散り際の美学

戦国時代、数々の偉業を成し遂げてきた武将達には、武将としての逸話だけでなくその人生の散り際までもが語り継がれています。

武将達のその散り際にはそれぞれの美学があり、儚さだけでなく格好良さも感じられます。

 

そんな美学を感じられる散り際であった3人の武将をエピソードを交えて紹介していきます。

 

切腹を名誉あるものにした清水宗治

時代劇などでよく目にする自害のシーンは「切腹」が多いのではないでしょうか。

 

「切腹」とは、字の通り腹を切り自害する方法です。これは、戦国時代では最も名誉ある最期だと言われていました。

では、どうして切腹が最も名誉ある最期だと言われるようになったのか。

 

それはこの「清水宗治」“人の心を打つ切腹”があったからです。

天正10年(1582年)天下の織田信長が中国地方の毛利輝元を攻略すべく、豊臣秀吉に攻めるように命令を下していました。

西の最前で清水宗治が城主であった備中高松城は難攻不落を誇り、秀吉も水攻めを行ったり、毛利軍の援護もありましたが均衡が続くばかりであった為、和睦交渉が行われることになりました。

 

秀吉の和睦条件は、

5か国の割譲

清水宗治の自害

を出していましたが、毛利は清水宗治の自害だけは認めませんでした。

 

このタイミングで、“本能寺の変”が起きた為、秀吉は今すぐにでも敵討ちすべく帰りたくて仕方ありませんでした。

 

その為、和睦条件を

3か国の割譲

清水宗治の自害

へと譲歩しましたが、毛利はそれでも認めませんでした。

 

そこで、秀吉は毛利ではなく清水宗治へ直接交渉しにいきました。

秀吉は清水宗治に対して、毛利があなたが死ぬことだけを認めていないと伝えると、清水宗治はそれを聞いて、

「仁の心を持つ主君に義を持って報いるのが臣下の道だ。早急に腹を切り和睦を整えたい。」

と伝えました。

 

清水宗治は小舟に乗り、城から湖へ出て、

盃一杯を飲み干し、舞を一差し舞った後、潔く腹を切り、首を切られました。

 

約7万3千人の両軍に見守られながら散っていったのです。

これだけ多くの人に見守られながら切腹したのは、後にも先にも清水宗治ただ1人と言われています。

 

これを見届けた豊臣秀吉は、

「清水宗治こそ名誉ある勇士だ。古今の武士の鏡である。」

と褒め称えたのです。

 

この清水宗治の潔く見事な切腹があったからこそ、

武士の切腹=名誉ある最期

という認識が広まっていったのです。

 

もし清水宗治がいなければ、時代劇の切腹シーンもあっさり表現されていたかもしれませんね。

 

勇敢な散り際 老将 馬場信春

武田軍”信玄“,”勝頼“親子2代に渡って40数年仕え、“不死身の鬼美濃”と呼ばれた武田四天王の1人 「馬場信春」は勇敢な散り際で知られます。

 

戦国最強と呼ばれた最強騎馬軍団の中心人物で、約70回に及ぶ戦に参戦し、傷1つ負わなかったと言われる猛将でした。

 

1575年、武田勝頼率いる武田軍と織田信長徳川家康率いる連合軍の“長篠・設楽原の戦い”がありました。

戦の途中、馬場信春は勝頼に対し何度も一時撤退の進言をしましたが、若い勝頼には届かず、自身の騎馬軍団を過信していた勝頼は、織田・徳川連合軍の足軽鉄砲隊により、1万もの兵が壊滅させられていました。

ここでようやく現状を受け入れた勝頼は退却を決断します。

馬場信春は勝頼の退却を援護します。

 

勝頼ら若い武士たちが無事逃げ延びたのを確認すると、馬場信春は反転し、追ってくる敵の前に立ち塞がりました。

この死に戦を引き受けたと言わんばかりに、最後の槍さばきを披露し、敵陣に向けて「自身を討ち取って功名とせよ」と言葉を残し、猛将らしい華々しく壮絶な最期を飾りました。

 

若い者に、自分の死をもって大切なことを伝えた馬場信春の“覚悟”が表れていますね。

 

美しい自己犠牲 独眼竜の父 伊達輝宗

奥州の伊達家16代目当主である伊達輝宗は、かの有名な独眼竜 伊達政宗米沢城を納めていました。

1584年に伊達家の家督を息子である政宗に相続します。

 

当時、輝宗は41歳で政宗は18歳でした。

新しく伊達家当主となった政宗は早速周辺諸国の攻略にとりかかりました。

家督を相続した翌年には、領土をめぐって畠山義継と対立します。

 

しかし、政宗の勢いに恐れをなした畠山義継は、隠居していた父・輝宗の元を訪れ、和睦を申し入れました。それを聞いた政宗は、畠山の領地を没収するとあくまで強硬姿勢でいました。

そのあまりにも不利な条件に畠山義継はキレてしまい、最後の手段として輝宗を拉致するという暴挙に出ました。

 

畠山義継を追い詰めた政宗は、父・輝宗を解放すれば命だけは助けると言うものの、義継は輝宗が人質であれば政宗は何もできないと、その条件を無視します。

 

輝宗は、自分1人のせいで息子・政宗だけでなく、伊達家を危険に晒すわけにはいかないと、政宗に自分もろとも義継を撃つように言います。

政宗が決断に迷っているところ、父・輝宗は政宗に対し、伊達家当主である自覚を持つように言いました。

 

苦渋の決断の末、政宗は畠山義継を輝宗もろとも撃ちました。息子と伊達家のことを想い、自己犠牲をもって未来を守ったのでした。

 

この大きな決断があったからこそ、政宗が一人前の当主になれたのではないでしょうか。