あなたはゴッホを知らない!なぜ耳を切り落とさなければならなかったのか?ゴッホについて徹底解説!

誰が知る有名な画家の1人であるゴッホ

『ひまわり』『星月夜』など数々の有名な作品があります。

その激しい性格や作品から”情熱の画家”なんて言われたりもしています。

ゴッホが亡くなってから120年以上経つ今でも、忘れられることなく、ゴッホを知る人が増えていく状況にあります。

そんなゴッホに対してあなたはどんな印象をお持ちですか?

また、誰もが知るゴッホですが、あなたはどれくらいゴッホについて知っていますか?

 

有名な耳を切った話、なぜ自ら耳を切ってしまったのか?

亡くなってから有名になった方法とは?

ゴッホとはどんな人物だったのか? 早速見ていきましょう!

 

 

どんな人?

本名:フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ

生年月日1853年 3月30日

死没月日1890年 7月29日(享年37歳)

出身地オランダ(フロート・ズンデルト)

 

ポスト印象派を代表する画家です。

フォービスムなどの20世紀の美術に大きな影響を及ぼしました。

ゴッホはオランダに生まれ、イギリス、ベルギー、フランスなど転々と移り住んでいました。

その移り住んだ土地で、出会った人やゴッホ自身の精神状態によって作風が大きく変化していきました。

 

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年表

この年表は、ゴッホの生涯の中でポイントとなる行動を年表にしました。 ()内はゴッホの年齢

1869年(16歳):画商グーピル商会に勤務

1876年(23歳):グーピル商会を解雇。

1877年(24歳):伝道師学校に入学。

1878年(25歳):伝道師の試験を諦め、ベルギーの炭鉱町で伝道活動開始。

1879年(26歳):教会により伝道活動禁止。

1880年(27歳):画家を志す。

1887年(34歳):浮世絵に関心を持つ。印象派の画家達と接触。

1888年(35歳):黄色い家でゴーギャンと同居。訳あって自らの耳を切り落とす。

1889年(36歳):自ら精神病院へ入院。

1890年(37歳):ピストルで自殺を試みる。死去。

 

 

生涯

出生から画家になるまで

ゴッホは1853年オランダ北部のズンデルト村(フロート・ズンデルト地区)で生まれました。

ゴッホには後に彼を支え続けた 弟 テオ のほか、弟1人、妹3人がいます。

 

彼は、小さい頃から癇癪持ちで、両親や家政婦からはもとりわけ扱いにくい子として見られていました。

勝手に1人で遠出していまうことも多く、花や植物、昆虫や鳥を観察して1日を過ごしたりしていました。

村の学校にも通っていたのですが、中退。途中から妹と共に家庭教師の指導を受けていました。

 

16歳になったゴッホは画商グーピル商会のハーグ支店の店員として約4年間勤務しました。

その後、ロンドン支店へ転勤となり、そこで出会った下宿先の娘 ユルシュラ・ロワイエ に恋をします。

想いを告白しますが、フラれてしまいました。

実は、彼女は以前下宿していた男性と婚約していたのでした。

グーピル商会

画像元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

ゴッホは失恋をキッカケに、その後ますます孤独になり、宗教にのめり込んでいきます。

パリ本店に転勤後は、さらにキリスト教への関心を深めていき、神に救いを求めるのでした。

その影響もあってゴッホは商会に対し反感を募らせ、不良店員となり解雇されたのでした。

 

24歳にゴッホは聖職者を目指し、伝道師学校へ入学しました。

しかし、受験科目のあまりの多さに挫折してしまいます。

精神的に追い詰められたゴッホは、パンしか食べない、わざと屋外で夜を明かす、杖で自分の背中を打つという自罰的行動に及んでしまうのでした。

結局勉強が思うように進まず、父から学資も自分で稼ぐように言い渡された為、ゴッホは試験を諦めます。

しかし、有名なチャールズ・アドラー牧師らと交わっていくうちに、貧しい人々にも聖書を説く伝道師になりたいと強く思うようになっていきました。

 

 

そうして彼は、ベルギーの炭鉱地で熱意が認められ伝道活動を開始します。

彼は貧しい人々に説教を行い、自分自身も貧しい生活を送るようになります。

しかし、ゴッホの活動は人々の理解を得ることができませんでした。

教会の伝道委員会もゴッホの常軌を逸した自罰的行動を伝道師の威厳を損なうものとしてやめるように警告するのですが、ゴッホがその警告に従うことを拒絶したため、伝道活動を禁止されてしまいました。

 

 

画家として

27歳の頃、ついに画家を志します。

故郷の風景や農民の生活を描き始めました。

一時期美術学校に通っていましたが、ゴッホが33歳の頃、画商をしている弟のテオをパトロンとして頼ります。

そして芸術の栄えるパリへ向かいました。

 

ゴッホはそこで印象派の画家たちに出会い、日本の浮世絵などに触れ、多くの影響を受けます。

それらを吸収し、自身の作風に取り入れていきました。

 

しかし、ここに来てもその性格によって、周囲の人間との確執を生んでしまい心を病んでしまいます。

療養のために移住した南フランス・アルルで今の私たちが知るゴッホの絵のスタイルが確立されました。

 

スタイルを確立させたゴッホでしたが、またも精神を病んでしまい、ゴッホは自ら精神病院へ入院します。

精神病院で治療を受けながらもゴッホは多くの作品を描き、数々の名作を残しました。

37歳でオーヴェール=シュル=オワーズへと移住しますが、その年にピストルで自殺を図り、翌日弟のテオに見守られながら亡くなりました。

 

 

エピソード

ゴッホを支えた重要人物

先述にもありますが、ゴッホを支えた人物は弟のテオでした。

弟にすがるのもどうかと思う人もいると思います。

しかし、ゴッホの気難しい性格もテオがいたからこそ才能として発揮されたのです。

また、金銭面でもテオがサポートしたことで、ゴッホが芸術に触れる機会が多く、絵のスタイルを確立させることができたと言っても過言ではありません。

テオ抜きでは、誰もが知るゴッホはいなかったでしょう。

ゴッホの弟 テオ(当時21歳)

画像元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

浮世絵に興味津々

当時、ヨーロッパでは日本ブームが起きていました。

ゴッホは浮世絵に出会いいつしか浮世絵の”虜”になりました。

浮世絵の影響をもろに受けており、ゴッホの作品には所々浮世絵の特徴が見られます。

 

なぜ耳を切らなければならなかったのか

有名な話で、ゴッホは自ら耳を切り落とします。

それは、一時期同居していたゴーギャンとの言い合いの中で起きました。

ゴーギャン(自画像)

画像元:https://ja.wikipedia.org/wiki

性格に問題があり思い込みの激しかったゴッホは、ゴーギャンが自分とずっと共同生活を送ってくれると思っていました。

しかし、ゴーギャンにとっては一時的な滞在に過ぎませんでした。

完全にゴッホの勘違いだったのです。

そのことで言い合いになり、ゴーギャンはこう言いました。

「 役に立たない耳なんて切り落としてしまえ 」

何気なく言ったこの言葉に対して、ゴッホは本当に自らの片耳を切り落としてしまったのです。

自らの手でほぼ全て切断していたようです。

く、狂ってる…..。

 

死後にどうやって有名になれた?

ゴッホは、亡くなってから有名になりました。

生きている間に画家として彼の作品が評価されることはありませんでした。

しかし彼の死後、画家として認めてもらえるようにと、テオの妻と子供が粘り強くゴッホの展覧会を開き、少しずつゴッホの絵を見てもらう機会をつくっていったのです。

彼らの尽力により、ゴッホの絵の人気は高まり結果的に偉大な画家としてゴッホの名が広く知られるようになりました。

 

弟のテオがいなければゴッホという偉大な画家は存在しなかったのではないでしょうか。

 

 

代表作

『ひまわり』

『ひまわり』についての詳細はこちら↓

ゴッホはなぜ『ひまわり』を何枚も描いたのか!?

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『星月夜』

『星月夜』についての詳細はこちら↓

「星月夜」ゴッホの哀しみの意味

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『カラスのいる麦畑』

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無根拠の常識が覆る!ゴッホの絶筆は嘘!「カラスのいる麦畑」

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まとめ

気難しく不器用な性格だが、内に秘めているものがあり、弟のおかげでその才能を開花させることができたゴッホ。

悲しみや怒りなど激しい感情を作品に投影し、今では偉大な芸術家として広く知られています。

しかしそんなゴッホがあるのも、様々な人があってのゴッホなのではないでしょうか。

この機会に、是非『ゴッホ展』でゴッホの作品にもっと触れてみてはどうでしょうか。

 

 

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