太平洋戦争の「撃墜王」こと菅野直 この生き様を見よ!

あなたには信頼できる先輩、上司は居ますか?

また、自分は周りから信頼されているのであろうか…と心配になってはいませんか?

今回紹介させていただくのは「菅野 直」という太平洋戦争における「撃墜王」で、米軍に「イエローファイター」と恐れられ、名を轟かせたある”漢”を紹介したいと思います。

 

生涯

彼は幼少期、喧嘩が強く言わば「ガキ大将」と言われていました。

また、頭も良く成績優秀。周りからは頼れるリーダー的存在だったようです。

また、家族とはとても良好的で兄とは兄弟喧嘩を一度もしたことが無く、姉に対しては母親のように慕っていたようです。

 

中学校には1番の成績で入学しました。

小説を書き、短歌を詠むのが趣味だったことから友人達を集めて文学サークルを作りました。

彼が書いた短歌は賞に入選するほどの出来で、このことから小説も中学生らしからぬ出来だったことが伺えます。

そして中学4年生の受験期、家の経済的な事情で大学に行くことを諦め、兵士になることを決意します。

 

1938年12月 海軍兵学校に入学し、1941年11月15日に卒業。少尉候補生として戦艦「榛名」と戦艦「扶桑」に乗船します。

 

1942年6月1日少尉任官。第38期飛行学生に拝命。この日から直はパイロットとなりました。

飛行学生時代、教官との模擬戦にて教官の背後を取れるほどに操縦技術が卓越していました。

しかし、その操縦方法は「乱暴」であり、恐れ知らずの操縦方法でした。

 

まだ習っていない宙返りを独学で勝手にやって見せたり、着陸に失敗して何機か破壊したりと破天荒な姿をみて「菅野デストロイヤー」とあだ名をつけられるほどでした。

そして飛行学生では知らない人はいないほどの有名人になったのです。

 

しかし、乱暴な操縦こそ菅野の思惑があり、後にこの破天荒な訓練こそが多くの人の命を守ることになるのです。

ちなみに、彼はどんなにパニック状態における瞬間的な判断とそれに応じた素早い行動が驚異的だったことから、どんなに無茶をしても大怪我をすることはなかったようです。

 

飛行学生を卒業してから分隊長となり、部隊を率いました。

そして、分隊長になった彼への任務は「敵の爆撃機隊を迎撃する」ことでした。

敵が乗る爆撃機は「B-24」という”空飛ぶ要塞”と言われるほど頑丈で、更に前後に強力な機銃を装着しています。

強力さ故に通常攻撃では菅野たちにも甚大な被害を受けることが想定されていました。

 

そこで菅野が編み出しのが

「前上方背面垂直攻撃」

 

爆撃機隊より1000m上で背転し、そのまま爆撃機隊めがけて真っ逆さまに連射しながら急降下、敵が数機いるど真ん中に突っ込みすり抜ける攻撃方法です。

想像するだけで震えが止まりません(汗)

 

この戦法で彼は1人で17機を撃墜、49機を無力化させました。

仲間もこの戦法を駆使するも、菅野は別格でした。

 

一度の攻撃で2機を同時に撃破したり、機銃を使わずに自分の乗る戦闘機の主翼で敵の尾翼をもぎ取り飛行能力を奪い撃墜させたりしました。

そのあまりの強さに米軍パイロットからは菅野が乗っている戦闘機に黄色いストライプ模様があったことから「イエローファイター」と呼び恐れていたのです。

 

この破天荒さは戦場だけに留まらず、フィリピンにて機銃弾を受けた際、麻酔なしで大腿部からの摘出手術を受けると希望して、瞑想して気合を入れると、摘出して縫合を終えるまで表情を変えず一言も発しなかったり、

間違えて違う基地に着陸してしまい上官に怒られた際には、その腹いせに戦闘機のプロペラの風圧で指揮所のテントを吹き飛ばしたり、

島に不時着した際には、現地の人間に「俺は日本の王子菅野だ!」と言い救助が来るまで王として崇められたりしました。

凄すぎる…

 

ここまで破天荒だと流石に周りの部下でも怖がられたのではと思いますが、部下からは大いに慕われていました。

それは彼がとても「心優しい人」だったからです。

 

生き様

ここで、「菅野 直」がどれだけの人間だったのかをエピソードを添えて紹介したいと思います。

まず、部下がどんなにミスを犯しても怒らなかったようです。

 

憲兵隊(今で言う警察)と部下が喧嘩をした際、当事者の引き渡しを要求されましたが、「そんな奴は知らない、部下は渡さない」と要求を断り、その部下を派遣隊に編入させ、憲兵から遠ざけて守ってあげたり、

別の日には部下と共に騒いでいたら上官から「うるさい」と文句があった際には、「明日の命も分からない者になにをいう」と怒鳴り上官を黙らせたり、彼はどんな時でも部下の味方でいました。

 

このことから彼が部下から深く信頼されていたのもよく分かりますね。

 

また、彼が乗る戦闘機には黄色いストライプが付いていました。

その理由は少しでも敵の目が自分に向くようにすることだったのです。

 

ただ破天荒で横暴な人は嫌われますが、そうではなく、破天荒である反面でとても心優しい方だったんだなと話を見て理解できますよね。

そんな心優しい彼にも運命の時が来ました

 

最期

1945年301飛行隊(通称・新選組)の隊長として「紫電改」に乗り仲間と共に出撃した菅野は、敵を発見し、攻撃に移りますが、攻撃の瞬間に機銃が暴発してしまいます。

「ワレ、機銃筒内爆発ス。ワレ菅野一番」

と仲間に入電が入りました。

 

これを見た部下が護衛に付こうとすると、菅野は「戦闘に戻れ」と指示を出します。

それでも菅野の護衛を離れずにいると菅野は初めて怒りの表情を見せました。

それは自分ではなく他の者の為に戦えと言う菅野の”優しさが故の怒り”でした。

 

そして敵を撃退させた後に菅野から

「空戦ヤメ、全機アツマレ」と入電があり、そのあと「ワレ、機銃筒内爆発ス。諸君ノ協力ニ感謝ス。ワレ菅野一番」

という入電を最後に菅野の機は、広大な空の何処かへと消えていきました。

 

燃料の続く限りの捜索でも見つからず23歳で戦死と認定されました。

撃墜数72機という彼のような破天荒な数を叩き出しての最期でありました。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。

今の時代に彼のような人はなかなか居ませんよね。

私は彼のような人材が後に凄い偉業を成し遂げるのではないかと思います。

 

現にこんな伝説を残しているわけですからね。

私は彼のように心優しく信頼される人になりたいと思いました。

 

もっと詳しく知りたいという方は彼の生涯についての書籍が出ていますし、漫画「ドリフターズ」にてその破天荒っぷりが上手に描かれているので是非手に取ってみてください!!