ズバ抜けた美的センス!茶人「千利休」の逸話と美意識について解説!

千利休は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人であり、茶人で知られています。

わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶道千家流の始祖で茶聖とも称せられます。

また、千利休は武士でもないのに織田信長、豊臣秀吉の2人に仕えていました。

 

そんな大物にも認められてしまう千利休とは一体どんな人物だったのか?

千利休の逸話美意識、そしてその最期とは?

今回は千利休という人物について詳しく紹介します。

 

 

千利休については以前、こちら↓の記事でも触れているので是非読んでみてください。

今だからこそ知りたい!『侘び寂び』

10/21/2018

 

経歴

本名は田中与四郎といい、大阪 堺の魚問屋に生まれます。

当時の堺は貿易で栄えており、京の都に匹敵するほどの文化の発信地でもありました。

 

利休の父は堺でも名高い商人であり、利休はその店の跡取りとして品位や教養を身につける為に17歳で茶の道に入ります。

最初の師は北向道陳でしたが、18歳の時に当時の茶の湯の第一人者と言われている武野紹鴎の門を叩き、23歳で最初の茶会を開きました。

 

その後、様々な茶会を開き着々とその名を広め、織田信長に仕えていました。

織田信長が本能寺の変で討たれた後は、豊臣秀吉の側近として仕えており、切腹を命じられその命尽きる瞬間まで利休は、茶人としての人生を全うしました。

 

千利休と豊臣秀吉

千利休の逸話には、豊臣秀吉に関わるものがいくつかあります。
その中でも有名なのが朝顔の話です。

 

利休家の路地の朝顔が美しいという噂を聞いた秀吉は、その朝顔が見たいがために利休に茶会を命じました。

秀吉はそれを楽しみに利休の家へ行くと、路地の朝顔は残らず切り落とされていました。

 

がっかりしつつも、腹をたてながら茶室に入ると、薄暗く狭い茶室に、一本の光が差し込んでいました。

その先には、一輪の朝顔が生けてあったのです。

 

利休は「一輪であるが故の美しさです。それ以外は全て摘んでおきました。」と言いました。

 

秀吉は利休の大胆な趣向に驚き、そしてその美学に脱帽しました。

 

審美眼

利休がある人の茶会で、後座の床に生けられていた花を見て

この坊主に久しく会っていないな」と言いました。

その場にいた周囲の人が「利休は何を言っているのだろう」と思っていると、利休は「水屋に池坊がいるはずだ」と言いました。

 

利休は、花の生け方を見ただけで、誰が生けたかわかっていたのです。

利休の審美眼を物語るエピソードですね。

 

千利休の教え「利休七則」

ある人が「茶の湯の極意を知りたい」と利休のもとへ訪れました。

その人に対し、利休は

「夏は涼しく冬は暖かく風情をつくり、炭は湯の沸くように、茶は飲みやすいようにしなさい」

ということを告げました。

相手は不満気に「そんな当たり前のことを…」と言うと、利休は「このような茶会ができるのであれば、あなたの弟子になりましょう」と答えました。

利休のこの教えは、後に4項目が追加され「利休七則」と言われています。

 

織田信長に意見!?

織田信長が大きな軍艦を造った時、信長は家臣たちに自慢すべく、感想を聞きまわっていました。

家臣たちは、信長に反する意見を出すと殺されてしまうため、下手なことは言えませんでした。

それに、軍艦はたしかに凄買ったので、信長に同調していました。

 

そんな時、利休はその軍艦を見て、信長に「イマイチですね」と言いました。

それを聞いたその場にいた人たちは驚愕しました。

 

利休の言葉に対し信長は「何がいまいちなんだ?」と聞き返しました。

利休は「色がイマイチです。全部黒くお塗りなさい。

信長はそれを即採用しました。本当に軍艦を全て黒く塗り、インパクトのある軍艦に仕上がりました。

あの信長に意見するなんて当時では利休以外ありえないでしょう。

 

風流

庭の落ち葉を掃除していた千利休は、庭の掃除を全て綺麗に終えたあと、掃除し終えた庭にパラパラと葉をまきました。

それを見ていた弟子は、「せっかく掃除し終えたのにどうしてですか?」と聞くと、

利休は「秋の庭には、少しくらい葉が落ちている方が自然で良いではないですか」と答えたそうです。

利休の感性には皆が驚かされますね。

 

茶室

利休がつくった茶室の中に「待庵」という小さな茶室があります。

そこには体を屈めて小さくならないと入れない入り口があり、入るのが精いっぱいで他に余計なものを持ちこめる余裕がないほどです。

その意図は、地位の高い人や低い人もこの茶室の中では関係なく皆が平等というものでした。

あの豊臣秀吉もこれには従っていたそうですね。

 

茶聖の最後

利休は後に秀吉との関係がもつれ、秀吉に切腹を命じられてしまいます。

秀吉が切腹を命じた理由には以下の説があります。

 

・大徳寺の門の改修時、利休の雪草履姿の木造を楼門の上に設置し、その下を秀吉に通らせてしまったから

・政治の事に口出しするくらい影響力を持っていたから

・利休の一声で茶器の値が高額になる影響力が許せなかったから

・いつしか莫大な財を築いていたから

・茶道に対する考え方が異なり対立したから

 

などがあります。

ハッキリとした原因は未だにわかっていませんが、千利休は抵抗することなく死を受け入れました。

 

秀吉からの切腹の命令を、利休に伝えに来た使いの者の中には、利休の弟子もいました。

そして、使いの者が「利休様、切腹が命じられました」と伝えました。

それを聞いた利休は、静かに口を開き、

「お茶の支度ができております」

そう一言告げました。

利休は、そのまま使いの者たちにお茶を出し、一息ついてから切腹しました。

死を前にしても、もてなしの心を忘れずに、茶人としての人生を全うしました。

 

 

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